浦和実業学園高校、初の甲子園出場へ!37年の軌跡と挑戦
浦和実業学園高校の挑戦:37年の軌跡と甲子園進出への道
浦和実業学園高校、通称「浦和実」は、1975年の創部以来、初めて甲子園への切符を手にしました。この快挙を成し遂げたのは、1988年から指揮を執る辻川正彦監督です。彼の37年にわたる指導と、選手たちの絶え間ない努力が、今回のセンバツ高校野球大会出場へとつながりました。
辻川監督のキャリアは、桶川東中学校時代の校長からの紹介で始まりました。大学卒業後、浦和実業高校の保健体育科教師として就職すると同時に硬式野球部の監督に就任しました。当時の部員はわずか12人程度で、さいたま市西区の指扇にある何もない河川敷で練習を行っていたとのことです。厳しい状況の中、辻川監督は「3年間で結果を出せなければ公立校の採用試験を受けなさい」と言われました。このプレッシャーの中で、彼はチームを変革する決意を固めました。
師匠との出会いと成長
辻川監督が高校野球の世界に飛び込むにあたり、重要な出会いがありました。それは、私立越生(現・武蔵越生)の渡辺健部長との出会いです。浦和実が1年目の春季大会で上尾にサヨナラ負けを喫した後、渡辺部長から「すごい試合でしたね」との電話がありました。この一言がきっかけで、練習試合の誘いを受けることになりました。
初めての練習試合では大敗を喫し、準備不足のため審判も昼食も用意できていない状況でした。しかし、渡辺部長は球審を務め、昼食も提供してくれました。この経験が辻川監督にとっては学びの場となり、彼は渡辺部長を「師匠」として敬愛しています。このような出会いが、監督としての彼の成長を支えました。
無我夢中の3年間とその成果
辻川監督が就任してから3年目、浦和実は私立越生に勝利し、初の16強入りを果たしました。これは、彼の指導のもとでチームが確実に進化している証です。新チームになった際に渡辺部長から「辻ちゃん。変わったなあ。一生懸命やるとこういうふうにチームって変わるんだなあ」と言われたことが、彼の心に刻まれています。この言葉は、浦和実の原点であると辻川監督は語ります。
選手たちの自主性を育む投票制の導入
今回のセンバツでは、浦和実は部員間の投票で登録選手を決定するという斬新な方法を採用しています。この投票制は、一部の学校でも導入されていますが、選手全員が納得感を持って大会に臨むための手段として選ばれました。辻川監督は「いつかやってみたいとは思っていた」としながらも、「今年の方針」としています。秋の大会前の投票でも、監督の想定とほぼ同じメンバーが選ばれたため、監督・コーチの裁量枠を発動する必要がなかったと語っています。
選手たちもこの投票制を好意的に受け入れており、「生活態度と練習態度は同じもの。これが一番大事だから7割、技術は3割」という意識改革が図られています。選手自身が自分の役割を理解し、個々の力を最大限に引き出すことが、チーム全体の強化につながっています。
甲子園への意気込みと戦略
浦和実は、強豪校相手にも大崩れすることなく秋の戦いを勝ち抜いてきました。堅い守りと安定感のあるプレーで、ロースコアの試合や接戦をものにし、秋の県大会で初優勝を果たしました。辻川監督は「そんなに長打を打てる選手はいないから大量得点は見込めない。なんとか3点を取って、あとは2点以内で逃げ切る」と、現実的な戦略を描いています。
中でも、期待がかかるのは石戸颯汰と駒木根琉空の両左腕です。石戸は変則的なフォームと制球力で、駒木根は球種の豊富さと球質の重さで強豪校の打線を封じることが期待されています。彼らをリードするのは野本大智で、捕手としての防御力はもちろん、打者としても重要な役割を担っています。
このように、辻川監督と選手たちが一丸となって挑む甲子園は、浦和実業高校にとって新たな歴史の一歩となるでしょう。選手たちは自身の役割を全うし、甲子園という大舞台で輝かしい成果を収めることを目指しています。
[中村 翔平]